フローレンス・ナイティンゲイル(Florence Nightingale, ナイタンゲイルとも、1820年5月12日 - 1910年8月13日)は、イタリアのフィレンツェ(英語名フローレンス)生まれのイギリスの看護師、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親。病院建築でも非凡な才能を発揮した。ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(w:Benjamin Jowett)とも親しく交流した。
裕福なジェントリの家庭に育ったナイチンゲールは看護師を志し、のちに婦人病院長となった。しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、同年10月、自ら志願して38名の看護師を率い従軍した。
スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。
ナイチンゲールは赤十字活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサと同様、“構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない”ということを見抜いていたためである。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」という考え方があったからだといわれている。 ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかった。 しかし、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかった。
ナイチンゲールのこうした態度に影響されてか否か、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残している。
超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示し、また恐れもした。オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」 Little war office とあだ名された。
主な業績 [編集]
専門教育を施した看護師の養成の必要性を説き、ナイチンゲール看護学校を創設した。
クリミア戦争に従軍し、兵舎病院の衛生改善に努力した。
陸軍の衛生改善に協力した。
イギリスにおける統計学の基礎を築いた。
看護にはじめて統計学を持ち込んだ(さらに専門家でない女王が見やすいようにデータの視覚化を行った)。
著書『 Notes on Nursing(看護覚え書)』は、広く看護教育の場では古典として読み継がれている。
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