シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、Siberian Intervention)とは、1918年から1925年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
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日本は兵力7万3千(総数)、4億3859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3千333人から5千人の死者を出し撤退した。アメリカが7千950、イギリスが1千5百、カナダが4千192、イタリアが1千4百の兵力を投入。ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5千名以上が殺害されたとされる[1]。
背景
第一次世界大戦でヨーロッパは、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね、経済は破綻した。1917年2月に2月革命、11月にはレーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命である10月革命が起き、1918年に帝国は崩壊した。
ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。このため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を開始し、ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。
すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。連合国は地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。日本政府のシベリア出兵に対する態度は,出兵という点では一致していた。しかし積極的な出兵論と消極的なそれの二つが存在し対立していた。積極的な出兵論とは,イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく日本は主体的かつ大規模に出兵を断行せよという立場である。これが参謀本部および外相本野一郎ならびに内相後藤新平たちの出兵論である。対して、これと比較するとやや消極的な出兵論すなわち対米協定の出兵論が、元老山県有朋および憲政会総裁の加藤高明ならびに立憲政友会総裁の原敬たちによって唱えられた。対米協定にもとづく妥協案が形成され出兵にふみきった。
Humphreys, Leonardによると「当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦争後に失った利権の奪還、地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた)等のみならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)である天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのである」[2]としている。そこで日本は同地域において(白系ロシア人)を核とした白軍にもとづく傀儡政権の樹立を意図したとされる。
経過
シベリア出兵を伝える日本の画報(救露討独遠征軍画報)アメリカは1918年の夏に出兵を決定した。上記のようにアメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれにあわせて出兵を決定し、連合軍はウラジヴォストークに上陸した。連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は日本やアメリカの軍隊であった。
しかし、1918年11月にドイツ帝国で革命が起こってあっけなく停戦すると、連合国はシベリア介入を続ける目的がなくなり、1920年相次いで撤兵した。しかし日本軍だけは、アメリカ軍やイギリス軍が撤退しても駐留を続けた。
日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たるパルチザンと戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。各国よりも数十倍多い兵士を派遣した。各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシア共和国ばかりでなく、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。[要出典]
日本
パルチザン(ゲリラ)掃討
1919年1月から、労働者・農民などで組織されたパルチザンによるゲリラ作戦に苦戦。次第に点と線の確保すなわち交通の要地を確保するのが精一杯な状態に陥った。そこで遊撃戦に手を焼いた日本軍は1919年1月以降、パルチザンが潜む村落の掃討をおこなった。
1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長の指令に基き」次のような通告を発している。「第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし」。またウラジヴォストーク派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛の電報「別電一五九号」には次のように記されている。「最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政府及日本軍に対し州民を煽動し向背常なく我軍隊にして其何れが過激派にして何れが非過激派なるかの識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如き状態は到底之を容すべからざるものと認め全黒竜州人に対し左の通り通告す一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打して殲滅すべし」)。
同年1月アムール州「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起し、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まった。日本軍は零下42度という過酷な気象条件のため撤兵、村は一時赤軍パルチザンにより解放された。しかし「守備隊長マエダ大尉(前田多仲大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。さらに「ソハチノ」という近隣の村に到着するや、女子供も含む逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った」とされる[要出典]。この内、日本軍の『出兵史』に「同地には我が守備隊よりの掠奪品を隠匿しありしを以て懲膺の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷せり」とあり、掠奪、ゲリラ作戦への懲膺として関係民家を焼夷したことは記されている。
同年2月13日インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦で、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、女子供をふくめた無抵抗の村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本刀による据え者切りなどを行った。その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行を行った」とし、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある。(出典:笠原十九司『東アジア近代史における虐殺の諸相』)
また同年3月22日にはイヴァノフカ村「過激派大討伐」を敢行。同村はもともと革命派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わなかった。そこでロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行った。しかしこうした抑圧政策は村民を憤激させ、逆に革命派勢力をより深く浸透させる結果となり、この情勢を察知した日本軍「討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、逆に地形を知り尽くしているパルチザン部隊によって誘いこまれて袋の鼠となり、田中勝輔少佐率いる歩兵七十二連隊第三大隊は同月26日「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」したとされる[要出典]。
アムール州中部地方第12師団歩兵第12旅団(師団長大井成元中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派大討伐」作戦を敢行。しかしパルチザンに対する作戦は失敗した。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。ウラジヴォストーク派遣軍政務部が事件後村民にたいしておこなった聞き取り調査にもとづく報告書の一節によると「本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である。」[3]とある。
翌年2月同州にソヴィエト権力が復活すると同村において州都ブラゴヴェシチェンスクの某新聞社が再度調査をおこなった。結果、死者総数は291名(内中国人6名を含む)で、そのなかには1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。
こうした赤軍のゲリラ作戦が招いた惨禍のなか、1919年秋連合国が後押しをしていた反革命のコルチャック政権は赤軍との戦闘において決定的に敗北。1920年政権崩壊。日本政府内にも白軍凋落を期に撤退機運が強まった。しかしその後、撤退機運に転機をもたらす事件が発生する。
尼港事件
シベリア出兵中の1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率い、ロシア人、朝鮮人、中国人四千名から成る、露中共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民が無差別に虐殺された事件が起こる。
この事件を契機として、日本軍はシベリア出兵を25年まで石油産地の北サハリンの保障占領を行った。
出兵の総括とその意味
原暉之は、日本サイドに注目して総括し「「シベリア出兵」は日本軍がはじめて直面した本格的な人民戦争であった。それは不敗を誇った天皇の軍隊がはじめて経験する無残な敗戦であった。軍紀の頽廃に絡む派遣軍将校のスキャンダルが続出したのも最初であれば[4]、少数ながら敵陣営に入った反戦主義者によって前線の日本兵に反戦宣伝が行われたのも最初である(新保清、林正俊、佐藤三千夫らの名前が知られている。片山潜もモスクワからチタへきて反戦ビラを書いた。)(中略)浦潮派遣軍参謀でのちに大将、陸相、文相となる荒木貞夫にみられる如く、この戦争に関わった日本の軍人はロシア革命と民族解放運動に敵意を深めた。そればかりか日本の国民大衆も尼港事件などに関連した反ソ・反革命キャンペーンの虜となった。1925年の日ソ国交開始に先立って上程された治安維持法がさしたる反対運動もなく成立した要因のなかに、このキャンペーンで植えつけられた対ソ悪感情が横たわっていたことを看過すべきでない、とする指摘[5]は正当である。」[6]などとしている。また、原、細谷千博によれば、同事件のみならず「そもそもソ連研究は戦前アカデミズムにおいてタブー視されていたうえ、この失敗に終わった不義の戦争を解明することは危険視された。(中略)(引用者注:日本が)あたかも被害者であったかのように描く一面的で感情先行的な出版物も多く、1930年代には本来深刻であるべき苦い経験は忘れられた。」ゆえに「道義的反省も批判的考察も欠いたような軽い歴史認識がノモハン事件の悲惨な大敗北を生む」こととなったとされる(原、?頁)。
ポーランド孤児の救済
ロシア帝国はポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑したため、ロシア革命当時のシベリアには相当数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年11月のポーランドの独立によって、多数のポーランド孤児(シベリア孤児と言われることもある)がシベリアに取り残されてしまったが、その保護のために力を貸す国はなかった。
その惨状を知った日本側は日本赤十字社を中核としてシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させた[7]。1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした[8]。シベリア出兵に従事し孤児を救った51名の日本軍将校に対し、ポーランド政府は1925年にVirtuti Militari勲章を授与して、その功績に報いた。